2011年03月
2011年3月15日(火)
朝起きてメールをチェックすると、
日本のBMWディーラーである福田モーターの大津さんからメールが届いている。
エンジンに異常を示す警告灯が点灯したため相談してあったところ、
「早めにエンジンオイルとエレメントの交換をして下さい」とのことだった。
今日、このヤウンデで出来ればと思い、
寺子屋のお二人に相談メールを送るとすぐに手配をして下るお返事をくれた。
最高に有り難いです。。
子供インタビューで訪問する学校へ行く前に、
お二人が運営されている寺子屋に伺う。
新築の素敵な建物に教室と住居を構えてる。
空手の道場、
日本語学校の教室、
音楽教室、
マッサージ&リフレクソロジーの部屋、
どの部屋を見てもアフリカと思えないほどきれいで広々としている。
ここで学べる生徒はとっても幸せだ。
私もここに少し滞在して英語を習いたいと思った(笑)。
お二人はJICA(海外青年協力隊)出身でアフリカに惚れ込み人生かけてここにやって来ている。
・・めっちゃスゴイ素敵な女性達です!
約束を取り付けて下さった学校までお二人はタクシーで、私はバイクに乗って移動。
その学校はインターナショナルスクールで、
このヤウンデではお嬢様、オボッチャマが通うようなハイソなところ。
英語の話せるディレクター(校長先生ではない)が出迎えてくれ、まずコーヒーをごちそうになる。
また今回のインタビューに際して訪問の目的のレターがあれば・・
とのことだっただが私の英語力ではおぼつかないないため横山さんが作成を手伝って下さった。
もう、何から何まで感謝です。
さて、子供インタビュー開始!
ディレクターが私達を教室を案内してくれそのクラスの代表3名を選ぶことになった際、
私! 私!
子供達が皆、すごい率先して立候補する!(驚)
担任の先生が代表者を選び、3名の子供にインタビューをすることが出来た。
ただしフランス語なのでどんなことを言っているかさっぱり判らないので、
後に先生からおおよその事を教えてもらった。
日本で翻訳をしてくださる方のご協力のもと、このブログにアップする映像が完成するわけだが、
その映像を待ち、私も見るのを楽しみにする。
さあ、インタビュー終了!
・・と思ったところ、先生がもう一つ教室へ行きましょう!
ということになりさらにインタビューが続く。
この学校の先生は私達にも対しても、子供達に対してもいろいろ見せたかったようだ。
二つ目の教室でも元気一杯の子供達がインタビューに答えてくれる。
特に、このカメルーンでは皆、緊張が無く、
とてもリラックスしていて、楽しんでインタビューに答えてくれていた。
ディレクターがさらに隣の学校(高等部?)も案内してくれようとしてくれたが、
時間の制約があり、さすがに遠慮させて戴いた(笑)
御礼のスポンサーステッカーを渡し学校を後にした。
次は、オイル&エレメント交換の作業をするのだが、
場所と抜いたオイルを廃棄してくれるところが必要だ。
そこで矢田さんのお知り合いで自動車の部品商をしている方を知っているということで、
そちらを訪問すると、大変親切な方で、
私を近くのガソリンスタンドに連れて行ってくれ、
オイルを一緒に選び、
私の作業を手伝う人を手配して、
一緒に作業を見守っていてくれた。
矢田さんへの信頼があったからこそ見ず知らずの私に対しても親切にしてくれたのだ。
やはり地球上、どこへ行っても人間力が大切だと改めて納得。
お陰様で一時間ほどで無事、作業を完了することが出来た。
これでオートバイも一安心。
その間、ずっと寺子屋のお二人は暑い中、屋外で待っていてくれた。
なんという素晴らしい方々だろう。
でも口べたな私は感謝の言葉を十分伝えられないでいることに少々自己嫌悪。
帰りにお二人とお茶をし、お別れをする際、お土産まで戴いてしまった。
本当に何から何までお世話になってしまい、有り難うございました。
今後、カメルーンでお二人の持つ夢、目標が叶うように心から祈っています。
またこのような最高に素敵なお二人を紹介してくれた日本の清水千絵さんにも深く感謝します。
明日は早朝、このヤウンデを出発しナイジェリア手前のマンフェに出来る限り近づきたい。
マンフェ~国境の町エコクがかなり大変な道の状態らしいので今から少々緊張している。。
ホテルの外観
ホテル前のメインストリート
日本の文化をカメルーンに伝える「寺子屋」バストスという高級住宅街のエリアにある
矢田さんに空手の型をお願いします!
というとすぐにハイ!
とめちゃめちゃノリがいい関西人(笑)
授業風景の横山さんです(笑)
インタビュー中です!
ガソリンスタンドで作業開始!
皆さんご親切に手伝ってくれました。
何から何までお世話になった二日間でした。深謝。
山田達也@ヤウンデ/カメルーン
朝7:00にカメルーン側国境の町を出発。道の状態が良いので順調に進み、中間の中都市エボロワを抜けヤウンデに到着。ヤウンデ空港からの道のロータリーで両手に何かの商品をぶら下げてる女性がいる。何を持っているのかとみると動物@@ あえてUターンして写真撮影させてもらった。イタチと山猫のようだが何に使うのだろう??(苦笑)
ヤウンデのヒルトンに到着したのが11:00すぎ。かなり順調だった。アメリカンエキスプレスの特別な協力により大体のホテルの手配をしてくれているので大助かり。感謝。九州の友人伊藤マチャが知人でカメルーン在住者からの情報でヒルトンホテルに絶対に泊まるべし、とのことだったので行くと大正解。値段は高いが対応は最高。今までの旅の中でNo1です。部屋に入ってすぐにこのカメルーンで子供インタビューのアテンドをして下さる横山さん&矢田さん(紹介者:清水千絵さんー)に連絡をとると近くにいるとのこでホテルでランチをすることに。彼女達は日本の文化をこのカメルーン(アフリカ)に伝えて行くという素晴らしいミッションのもと半年以上前に居を構え「寺子屋」という教育施設を運営なさっている方々だった。
Website: http://terakoyaafrica.web.fc2.com
わざわざ時間を割いてくれ私がカメルーン到着後必要な作業を全てお手伝いしてくれた。感謝。
明日、寺子屋さんを訪問後近くの学校に行き、子供インタビューを行う。コンゴ、ガボンが出来なかったのでとても楽しみ。さて、日本についてはどんな意見を語ってくれるだろうか。
女性が持つ、売り物の小動物。。ちなみに値段はいくらだったんだろう(笑)
街を案内してくれる横山さんと矢田さん。正面奥がヒルトンホテル。この辺りは官庁街だそう。
携帯電話の使用に関連して訪問した現地の大手電話会社。超混み!アフリカは今どこの国も携帯ブーム!!
街のど真ん中の広場で自動車教習が行われている。運転が荒いことで有名なカメルーン人の元はここだったのか!(笑)
昨日の土曜日、在ガボン大使館員の古川さんが私の泊まっているホテルまでわざわざ来てくれ、ガボン他、私が今後向かう国について多くの情報を伝えてくださった。またナイジェリアのビザの入国の有効期限が迫っていることが改めて確認出来たので旅の移動を急がねばならない。今日は出来る限りカメルーンに近づきたいのでオイエムに到着出来れば最高!・・と思いながらリーブルヴィルを早朝6:00過ぎに出発。ホテルを出てN1国道に向かう時右側に奇麗な砂浜があることに気付いた。街を離れる日になってのことだ。ここ数日、風景をゆっくり楽しむ余裕がなかったことに改めて気付く。ビフンまでは首都につながる唯一の国道なのにアスファルトが穴ぼこだらけ。注意していないとバイクなら大転倒につながる箇所もいくつもある。多くの車が足回りをやられエンコしてその場で修理、または道端に置き去りにしてある。しかしながら私にとってこのアスファルトの道は極楽そのもの。結果的にこの日は一部未舗装路を含め700キロ弱を一気に走り切り、オイエムを過ぎ、ガボンを抜けカメルーンに入国した。コンゴではこの距離を走るのに一週間かかったが今日は一日だ。まるで親のカタキをとるように(?)アスファルトの道を攻め続けた(笑)。 途中、いくつものポリスストップがあったがガボンの警察や憲兵は一度も私を停めることなく「通過して下さい」と言うだけ。国境も含め、賄賂の請求も一円たりとも無かった。道を走っていると多くの人が素晴らしい笑顔で手を振ってくれる。「Give me money」のジェスチャーではない。トラックの荷台に乗っている人までも素敵な笑顔で挨拶を向こうからしてくれる。ロペ近くの村でコーラを飲んだ時、その店主が「ガボン、セボン(good)」とフランス語のシャレを言っていたが凄く納得する(笑) 道の良さと人の温厚さや、政治情勢の安定性は比例していると肌で感じた旅である。「罪を憎んで人を憎まず」に則って考えれば、アンゴラの途中からDRC(コンゴ民)、コンゴ共まで憲兵、ポリス、国境役人などの賄賂の請求はすごい(酷い)ものがあったが様々な意見、情報を聞く中で納得も出来てくる。彼らはとても低い賃金でその職に着き、有事の際には最前線で活動せねばならない。ほとんどまともな訓練も知識も受けていないという中でだ。一般の方同士でも沢山の人がお金のやり取りをしているのを目にする。ちょっとしたことを頼めばお互いチップの支払いを日常的に行う。だから役人が旅人を見ればお金を持っている人とみなし、経済学的に言えば本能的に税金がわりに徴収してそのまま自分の収益にして収入を確保するという微妙なバランスをとっているようにも思えた。
さて、道の状態が良い事に一気に国境まで行くと、ガボンの出口オフィスで、カルネのスタンプはお押すけど、パスポートの出国スタンプはここから30キロ戻ったビタムという町のイミグレーションでハンコを押してもらわないといけないという。仕方がないので戻ることに。また一つ、国境に関する勉強が出来た(笑)。カメルーン側の国境でパスポートに入国スタンプを押してもらったのが17:30。もう暗くなり始めている。国境過ぎにすぐ村がありホテルらしき看板があり人がいたので聞くと泊まっていけという。そしてその人は警察官でカルネは500m先のジェンダメリーオフィスでというので行くとすでにパジャマ姿になった役人が出て来てハンコを押してくれた。皆とても親切。ホテルはベッドだけがある部屋。
【ホテルEMERAUDE 10000シーファーフラン(1700円)素泊まり】
夕食をお願いすると何が食べたい?と聞くので無難なチキンと答えると、そこの中学生くらいの娘が食材を買いに出ていった。するとチキンがもう無いのでフィッシュでもいいかというのでOKだよと。小一時間ほど待つと魚料理の夕食を出してくれた。何の魚か不明だが(笑)美味しくいただけた。コーラ込みで約1500円。総じてアフリカの食事は比較的高いです。。
辺りが真っ暗になったところで宿の発電機のエンジンが掛かった。部屋の電灯がつく。真夜中になって発電機が停まると共に部屋の電気も使えなくなる。あとは供給されたアルコールランプだけが頼り。風呂も水道も無いが宿を確保出来ただけでも一安心なので熟睡する。
ここもいつかゆっくり来てみたい街だ
明け方の海岸線を走る
分岐点になっているビフンという町。もしコンゴでドリジー経由で北上してきたらこの標識でいうと右から来る事になっていた。結構、感動。
ミシュラン地図の赤線が破線になっているところは要注意部分。アンゴラ、コンゴではエライ目にあったところ。
しかしこのガボンではこの通り超~美しい完全舗装路!何を信じればいいの!?(笑)
カメルーンの国境を超えた村。ホテルの看板と経営者で女性警察官でもある。
魚料理と食用バナナ。結構、美味。
フランスヴィルでもらったパンが一つ残っていたのでそれを部屋でかじりサプリをとって朝食終了。チェックアウトを済ませ今日も霧の中、ロペのモーテルを出発。霧のせいでシールドが曇り中々ペースを上げて走ることが出来ない。コルゲーション(波状路)がかなりひどいがコンゴの道から比べると天国!(笑) インターネットが使えなくなって早10日ほど経つので確実に使える首都リーブルヴィルに行く事にした。ロペからリーブルヴィルまで360キロほど。その内の3分の1くらいがダートだ。ただアスファルト部では穴がひどく、よけて走るのには苦労する。到着したホテルはかなり設備が充実しているため値段は高いがインターネットが必要なたまった作業が出来るのでよしとする。
【Oukoume Palace International USD232 】
インターネットをノートPCにつないでみると膨大なメールが届いている。連絡がとれず多くの方に大変ご迷惑をかけた。この場を借りてお詫びいたしますm(__)m 家族に連絡してわかったのが日本で東北沖大地震があり多くの方が被災したと。このガボンのホテルのロビーでも、部屋のTVでもずーっとCNNでこのニュースが流れている。アメリカの友人、マット&リサからも私の旅のことについては短く終わらせて(笑)、日本の私の家族、知人について心配のメールをよこしてくれた。世界中の人が日本を心配している。被災された方、その知人の方に深くお見舞いを申し上げたい。
コンゴで多大にお世話になった在コンゴ日本大使館の方から改めて私の安否の確認と在ガボン日本大使館の連絡先を知らせるメールが届いていた。早速、ガボンの担当者の方に電話をかけてみると既に私の存在を知っていた。コンゴの日本大使館の方以外に、私と入れ違いでリーブルヴィルを出発し、アフリカをバイクで走っている二名の日本人から私の存在を聞いたという。そのご夫婦は私のブログを見て頂いて知ったと。また偶然にもフランスヴィルのホテルで一緒だったアメリカ人親子もこのお二人と出会っていて私に話しをしてくれていた。(業務連絡です(笑):TAKAOさん?このブログを確認されたらよろしければご連絡下さいtrp@jp.bigplanet.comまで)そういえば、私がブラザビルを出発して二日後に到着したロテテという町で出会ったバイクが壊れてトラックに積んでいたドイツ人ライダーのことをアメリカ人親子がガボン入国前で出会っていてバイクが元気な頃の(笑)彼のことを知っていた。世界に出ていても世の中狭い!と感じた。
このホテルはなんと、バスタブがある!!久しぶりにゆっくり浸かってみた。超、幸せ。。
しかし改めて日本の惨状の新しい情報を見る度に胸が痛む。早く余震が収まりますように。そしてこれ以上の被害が出ないように祈ります。
ロペは国立公園がある素敵な場所。朝日を浴びて出発。
こんなに低い位置に雲がかかる。
いくつもの川を渡りながら国立公園を抜けて行く。
やっとリーブルヴィルのホテルに到着すると日本が大惨事に!!
ひっきりなしに日本の地震についての報道が行われ、ホテルにいる人もTVに釘付け。
2011年3月10日(木)
朝食後、霧の中フランスヴィルを後にする。向かうはロペ。情報交換をしたトムさん親娘からの情報でこのロペのホテルがすごいいいと聞きいくことに。道の状態も悪くないので400キロダートでも一日で行けると。約30キロ、行き過ぎてロペの次の村までいって引き返し、無事そのホテルに到着。しかし今日に限って全ての電気がダウンしているので客を受けていないという。対応をしてくれたホテルスタッフが近くの別のホテルにつれていってくれた。
【モーテルE.MBEYI 2000シーファーフラン(1400円)素泊まり。エアコン、お湯シャワーあり】
ガボンのこのルートは、ずっと川、湖沿いを走る気持ちがいいラインだった。水の都という感じ。
ある橋の上で。
到着したモーテル。スタッフはなんでも、ゆっくり、ゆっくり。アフリカタイムが流れている。
電力と水力は弱いが作りはきれい。
夕焼けが美しかった。このあたりはサファリが楽しめ象を初め沢山の動物を見ることが出来るらしい。
ガボンはトカゲが多い。道を走っていてすごい大量のトカゲが目の前を横断する。
朝食後、トムの娘(ジャネット)とお互いの地図を広げ情報交換。また車の保険について情報をもらったので今日、このフランスヴィルの町で加入することにした。ランドリー第二弾をホテルに預けホテルフロントで保険屋の場所を聞いているとホテルスタッフ、サクリーが一緒に行っていくれると言う。ガボン人とても親切!一緒にタクシーに乗りホテルとセンター市場(ポトノ)の間くらいにある保険屋の事務所にいって8カ国ほどカバーする保険に加入した。日本円にすると20000円超えで痛い出費だが警察に停められ面倒な話しをすることも含めて考えると無論加入しておいたほうがいい。昨日行った銀行に行くと今日はビザカードが使えなくなっていた。マスターカードでチャレンジすると大丈夫だった。
ホテルに戻りバイクの整備を開始。今日はついにフロントブレーキパッドを交換。(走行距離:15000キロ)あとわずかでパッドが無くなるギリギリだった!(焦)このバイクのブレーキパッドを交換するのは初めてだったの一部作業が進まなくなった時に日本で24時間体制(笑)でいてくれる岐阜のバイクショップ経営の小藤さんに電話(日本時間1:00くらい)。 お陰様で構造の確認が出来たのでその後は順調に進んだ。チェーン調整、オイル給油。タイヤ空気圧チェック。その他、各部調整。その作業をしている最中、トムとジャネットのランドクルーザーはコンゴへ向かうため別れの挨拶をした。荷物の整理、清掃をしているとあっという間に日がくれた。明日のルートを確認しながら一人で夕食を取る。ここの料理はとても美味しかったので疲れも癒された気がする。もう数日ゆっくりしたいがそうもいかない。すでに当初の予定より半月の遅れが出ている。しかい焦ることなく安全第一で進んで行きたい。
フランスヴィルの観光地?珍しいピラミッド型の教会。
フランスヴィルホテルの部屋。この普通さに感動!!(笑)
バイクは部屋のすぐ前に置かせてもらう。
思わず飛び込んだプール!(嬉)
このゲートをくぐった時、「助かった・・」声が出た(笑)
フランスヴィルは丘陵地の美しい町。
ホテル玄関
こんな素晴らしい食事にありつけた(涙)キバサとマルタンにも食べさせたかった。。
次は携帯電話のSIMカードを買いたいがアフリカの他国のように道ばたで売っている気配がない。人に聞いても町の中心地にいかないとないという。途中ガソリンスタンドで満タンにし併設のコンビニ店で必要品を購入し、中心地「ポトノ」へ向かう。途中で日曜大工用品店のような店によりマルタンにあげた軍手の変わりを探すが同じものがない。似たもの見つけて妥協。その後、やっと携帯電話ショップを見つけた。このフランスヴィルでは日本と同じように身分証明の情報を入力して始めて電話番号を得るSIMカードを購入することが出来るようだ。センター市場を少し歩いたあと、バイクの洗車をしてもらった。汚れが激しい途上国の道路事情なのでどの町にも洗車屋さんがある。この町では1500シーファーフラン(260円)だった。銀行によりお金を下ろしたいが二件目の銀行でビザカードが使えた。ただかなり動きが不安定でたまに機械が停止していた。あっと言う間に陽が傾き始めたころホテルに戻りまだ暑さがひかないので思わずホテルのプールに飛び込んだ。ドエライ(岐阜弁でスゴイ)気持ちいい!!また生きている実感がしみじみ湧いて来た(嬉) プールで話しかけてくれる人がいる。スイス在住の初老のアメリカ人(トム)で娘さんと二人で車でスイスから南アフリカまで行く人だった。ちょうど私がこれから行く道を彼らが走ってきて、私が走って来た道を彼らが行くところだったのでお互い貴重な情報交換が出来た。彼らはほぼ良い道を走って来たので私の情報を聞き、これから経験するだろうひどい悪路について頭を抱えて苦笑していた。
かなり適切な作業で修理を進めてくれた。
修理工場の人々と仲間達!
丘の上に大統領の像がそびえ立つ。このあたりの出身だそう。
街で最も広い道の両脇に観覧席がある。軍隊のセレモニーを行う時に使うとのこと。
ポトノの町中。日本人の私を見ても誰も珍しがらない、気にしない、今までのアフリカ他国と違うと感じた。
バンバマを出て、国境までは大変な道のりの総仕上げといった感があるほどだった。水たまりの深い所は腰近くまであるものが連続し何度もスタッグ、数回転倒。その度に二人に助けてもらう。ほとんど誰も歩いていない地域だ。国境手前4キロほどあたりで前からライフル銃を持った人が歩いている。警察や民兵ではなく狩りをする村人だった。その人の住む国境最後の村がすぐそこにありそこで水をごちそうになった。銃で何を撃つんですかと聞くと、このあたりは象が沢山いるのでそれを狙うと言う。いやいやいや、スゴイ・・(笑) また少し先に最後の茶屋?みたいなものがあり最後の休憩をしている時に、子供インタビューに挑戦した。コンゴ共和国に入り二日目、大雨で急遽泊めてもらったキンブングの村で子供インタビューに失敗しているのでコンゴでのラストチャンスだ。キバサに主旨を伝えて12才の子供にインタビューを開始するがキバサも私も英語力が高くないため質問内容も把握できにくく子供に通訳をしにくいようだ。ここでもいろいろな角度から質問内容をキバサに伝えるが結局、出来なかった。一番ショックだったのは「夢」=フランス語でreveの意味が判らないという。「夢を持つ」という概念がないように思えた。キンブングの村でも同じような反応だった。確かにコンゴの山奥に住み、夢を持つという事は難しいのかもしれない。私は今日中にフランスヴィルに行き、彼らは家に帰るために来た道を戻っていかないとならないため子供インタビューを終えるとすぐに出発した。
どんどん、どんどん、道が悪くなりとてもキツい下り坂のあと突然大きな川があり道が開けた。そこにかかる橋は立派だった。ついに国境に着いたのだ。橋を渡ると「GABON」と書いた石像だけがある。今までの国境と全くイメージが違う。そしてその川を境に道が格段に良くなっている。ここは本当に境界線だ。彼らが言うにはここから4キロ走るとガボン入国のイミグレーションがあるという。そこまで一緒に行こうと言うと、自分たちはこのパスポートも何も持っていないのでこの境界線から先のガボンのエリアに立ち入ることができないと。4度の夜を共にした仲間と本当に最後の別れの時が来た。彼らと約束した御礼に上乗せしたものを渡し、記念撮影をし、橋の上で最後のハグを、強く、そして長くして涙の別れをした。橋の下ではごうごうと茶色い濁流が流れている。二人は私が見えなくなるまで橋のたもとで見送るという。バイクにまたがりエンジンをスタートさせギアを1速にいれ発進させる。一度だけ振り向きお互い手を振る。その後、私は高い茂みの道の奥に入りこみ彼らと永遠の別れになった。 彼らと別れて走り出した時、トリップメーターをリセットして4キロ走ったが国境らしきものが無い。5日ぶりに一人ぼっちに戻ったため相当不安になる。また道が悪くなった。話しが違うじゃん!(苦笑)と思うが、もうアフリカ人の言う表現と私の感覚が相当違うことには慣れた。結局、10キロ過ぎた所に国境オフィス(村の端に設営された大きめのテント)の一部があった。道もすぐに良くなってきた。相当な疲れの中、フランス語が出来ずに一生懸命ジェスチャーで話しをしパスポートなどを差し出してから水が欲しいと表現すると美味しい缶ジュースと大きい新品の水のペットボトルをただでくれた。おいおいおい!ガボンに入ったとたん今までの雰囲気とは違うぞ!(嬉)その方々の顔付きもかなり優しい。その場所は荷物チェックの場所で、パスポートに入国のスタンプを押すのはここから3キロ先のジェンダメリー(憲兵オフィス)に行って下さいというので進むとやはり5キロ先だった(笑) そこに着き30分以上待った結果、スタンプを押す係官がフランスヴィルにいてここに居ないのでフランスヴィルの警察署まで行って欲しいという。入国関係の作業はポリス(警察)とジェンダメリー(憲兵)とで分担して行っているらしい。その時点で15:00を過ぎていたのでフランスヴィルに向かうのは明日にして今日はこの町に泊まろうかと思っていると伝えると1時間30分あればフランスヴィルに着くよと。道は全然良いので大丈夫だという。信じて走り始めると本当に道はよく結局フランスヴィルの警察署に17:00に着いた。警察署に着くと明日の朝来て下さいとのことだったのでその警察官に教えてもらったホテルに向かい到着。そのホテルは町で一番良いホテルでプールはある、シャワーのお湯も十分出る、部屋はきれい、食事も美味しい、価格も手頃、と全てが揃っていて感動するほど嬉しい。アンゴラ北部~DRC~コンゴのきつい区間がまるで夢だったと思うほどの世界に来た気がした。残念ながらインターネットが壊れているので各方面への連絡はまだ当面お預けだ。
【ホテルプバラ 一泊4000円素泊まり】
泥だらけの荷物を部屋で解き、すぐにシャワーを浴びた。「(俺)生きている!!」思わず言葉が出た。お湯のシャワーをこんなに幸せに感じたことはなかったな。そして泥が付いてない衣類を探し着替えてホテルのレストランで夕食を摂った。全部フランス語で読めなくて困っていると別のテーブルで食事をしている人が手伝ってくれた。基本のコース料理があったのでそれを頼む。サラダ、チキンのメインディッシュ、デザート、そしてファンタ、水、最後にコーヒー。これら全てを一口、一口、感嘆の思いで味わった。
ホテルに着いてから何度か、マルタンとキバサに電話をしているが通じない。今どこを走っているんだろう。少し心配。彼らは家に着くまで4日はかかるだろうと言っていた。
虫除けスプレーを使っているが何かに刺されこのとおり(苦笑)
大自然の厳しさと、コンゴの道の悪さが相まった結果の道。
これは竹が集まって生えているものだった。
マルタンの指示が的確なので助かる。
ジンジャー(ショウガ)の仲間だと思うが独特の甘みがあってこれを拾いながら食べて進んだ
最後の村で象狩りの人と。
手作りの子供のおもちゃが可愛かった。
ガボンとの国境はこれだけ。
感慨深い表情の二人。使命を全うした満足感と別れの辛さと4日以上かけて帰る憂鬱さ?
最高のショット!
見送りを背に前に進むしかない。
10キロ先にガボンの入国審査場があった。みな親切にしてくれた。
2011年3月6日(日)
コモノを出ていよいよ国境越えだ。コンゴ人の二人はついに今日で私達のミッションが終わると満足げであるのと同時に寂しげでもある。私も今日でお別れかと思うとヘルメットの中で何度も涙ぐむ。
道は酷いが野宿明けの朝からは快晴なので順調に進む事が出来た。途中いくつもの村を通り過ぎて行く。ただ相変わらず彼らがいなければ完全に道に迷うところばかりだ。さあ、あと20キロほどで国境だというときのある村を通り過ぎようとした時、一人の村人が大声で私達を制止する。彼ら二人が話しを聞くと、二つ前のバンバマという村のポリスが戻るように言っているという。何事だと思いそのまま行ってしまっても良いのでは?と伝えるがコンゴ人達は素直に従おうとしている。もう少し話しを聞くと私達を追いかけて今、憲兵がここまで来るという。20分ほど待つとライフル銃をこれ見よがしに肩から前に下げたものと腰に拳銃を着けた二名がミニバイクに乗ってやって来た。憲兵待ちの時、村の道ばたで私達が座りこんでいるときは村人が近くに寄って来て特に私を珍しそうに子供が集まって見ていたがこの憲兵がくると蜂の子を散らしたように一斉に村人が家に隠れるように入る。憲兵がとにかくバンバマの署まで戻れという。日本大使館に連絡し何を言っているか通訳をしてもらうが憲兵の言い分が二転三転してよく判らない。「何かあれば私に連絡してください」といっていたコモノの憲兵に連絡して話しをしてもらうが何も事態は変わらない。結局せっかく走って国境まであと少しというところだったのにまた悪路を戻ることになる。まるでアンゴラ最後の日と同じだと思いながら走った。署までいくといろんないちゃもんをつけて罰金を払わせようとしているが私には全く非がない。しかし永遠に何かを探そうとしてるのでたまらずキバサがここでもいくらか払えば良いという。そして彼らは100ドル欲しいと言って来た。その前にブラザビルで泊まったホテルが一泊いくらしたか聞いていたのでそれで要求金額を決めているようだ。結局、日本大使館の電話でのヘルプもあり20ユーロ約3000円を払えば解放すると約束したので支払った。署から外に出るともう暗くなっていてもうこの村に泊まるしかなくなった。20ユーロを差し出し各種書類を返却して署を出るとまた呼び止める。今度はイミグレーションスタッフと名乗る人物がパスポートとカルネを見せてというので渡すとそのまま明日まで預かるという。それには抵抗し返すよう強く主張し、書類をとり合いのような状態になるが奪うようにして抱え込み離さない。周りにはライフルと拳銃をもった人間がいるので私もそこまでにした。また大使館に連絡し今度は外務省を通じて返却するよう求め手続きをしようとしたがこれはうまくいかずイミグレーションの人物はいなくなってしまった。今度は真っ暗闇の中、別の担当官の仕事で全ての荷物の確認をするという。懐中電灯を使い調べ始める。全ての作業が終わり解放されたのは20:00近く。それから宿に行き4泊目を3人で過ごすことになったことをまた笑いしながら夕食を共にする。コーラがまた格別に旨い!ビールを飲まない私にとって最高の贅沢になってきた。まだコンゴにいる。そしてこの二人も家族から「あんたまだ帰って来ないの?」と連絡がある。思いがけない3人の旅が続いていてまだ終わらない。さて明日は本当に国境越えが出来るのか?
国境へ向けてひた走る。天気がよくて有り難い!
小排気量の彼らのバイクは何度もオイルとガソリンの補給を行う。
結局、バンバマという町に戻って泊まることになった。
これも自分が選んだ旅。
2011年3月5日(土)
マルタンに起こされた。「ミスターヤマダ、モト(オートバイ)、モト」という。時間をみると5:30。雨は止んでいた。空がわずかに明るくなろうとしている。出発するのかと聞くとそうだと言う。雨の影響で路面状況は変わらず前に進むスピードは徒歩より数倍遅い。しかし少なくともコモノには近づいている。村人も歩き始めた。前方、後方から1、2台車が走ってきた。コモノまでまだ距離があるのでついに車に乗せてもらえないかと聞いていると2台目が乗せてくれると言う。距離は4キロほど。バイクを荷台にどうやって乗せるんだろうと思ったがまたアフリカ人のすこいところをみる。自然の地形を活かし、荷台の高さに近い崖?を見つけその崖の上にバイクを乗せる通路をスコップで作る(驚) 人の手を借りることなく無事バイクを荷台に乗せることが出来たが、今度はこの車が悪路を行けず何度もスタッグ。4WD車のはずだが壊れているようで後輪駆動で走っている。スタッグの度に助手と運転手がつるはし、スコップで路面を整備し行けるようにする。激しい揺れでいつバイクがトラック上で倒れないかヒヤヒヤしながらの移動を続けやっとコモノに着いた。まだ昼前だったがさすがに野宿明けでこのコモノに泊まることにした。まずはブランチを取ることにした。本当に命からがらたどり着いたホテルでありつけた食事は格別で3人で大いに笑いながら過ごしているとホテル経営者がこの地元の警察に行けと言う。パスポートとカルネのチェック。そしていつもの賄賂の請求(笑)このポリス所長はビール代で良いと。400円くらいであればと払った。ホテルに戻って野宿で泥だらけになった寝袋、カッパ、ライディングウェア・・他を洗っていると別の警官が来てまた署までこいという。日本では考えられないがこのコンゴでは「警察」と「憲兵」と二本立てで町の治安を収めているようだ。この憲兵の署にいくと今度はなんだか説明がいい加減でよくわからないが言ってしまえば「用心棒料」見たいなものがあり安全にこの町で外国人旅行者が滞在出来るようにする為の手数料ということだそうだ(笑)これは2000円くらい。支払った後、シェリフ曰く「もうこれで安心してガボンに行けますよ。何かあればすぐにこの番号に電話して下さい」と言い二つの電話番号をくれた。ホテルに戻り泥だらけになった衣類の洗濯、バイクの洗車、整備、給油、いろいろと忙しく時間が過ぎた。
夕刻になったころマルタンとキバサが記念撮影を取ろうという。私がカメラを用意しようとすると町のカメラ屋を呼んで来ていた。ちなみにフィルムカメラの一眼レフを使っていた。現像したものを購入するらしい。もちろん私のカメラでも撮影した。いよいよ明日は国境にいくことで別れの日となる。結局、野宿を含め3泊一緒に過ごしたことで言葉は通じなくとも最高に友情が深まり、お互い格別の信頼をし合う仲間となった。夜になり夕食はどうするのと二人に聞くと37歳のキバサはもう寝るといい、30歳のマルタンは偶然このコモノは親戚の家があるのかここも地元だった。そのため女性の友人と過ごすといってニヤついていた。その女性を私に紹介し握手をした。こんなシーンもアフリカ人の人間的な部分を垣間みることが出来た。大体の作業が終わったところで風呂の時間だがここのホテルはまさにアフリカスタイルのホテル。部屋に風呂もトイレもなく私の部屋は電気も無い。アルコールランプだけ至急された。ベッドは敷板の本数が少なくところどころくぼみがあり寝ると体の一部に何かが刺さって痛い(笑) 風呂は、屋外に洗い場があり雨水をためた水が水道の変わりだ。この水で皆、全身で洗う。川で洗うよりはいいらしい。野宿明けということもあり問答無用に水浴びをした。ただ髪を洗う気にはなれなかったのでペットボトルの水で濡らした手持ちのタオルで拭く。全身もあらためてそうする。ブログを打っているともう時間は24時に近くなるのだがここのホテルも中庭で大音響で音楽を鳴らし人が談笑する声が深夜まで響きわたる。そんな中、野宿でない所でのベッドに満足し安眠する。
タイヤとフェンダーの間に泥が堆積して何度もタイヤがロック状態になるためフェンダーを外した。またタイヤの溝に泥が埋まるとまったく舵が効かなくなる。
泥沼道は徒歩より数倍遅いスピードでしか進めない。
コモノまでの最後の数キロだけトラックが乗せてくれた。
このトラックもスタッグする度に整地して脱出する。
私にとってかけがえのない写真となる。彼らは私の命の恩人。
ここまでだけでもすでに600キロほど共にしただろう。
川で洗車を多くの人がしにくる場所。
マルタンがきれいにしてくれた。
最後はみんな、川に飛び込み石けんで体を洗う。
2011年3月4日(金)
カイの出発の朝、この先のルートについてさらに熟考した。当初の旅程通り、ドリジー経由で北上しニャンガ、ンデンデを通りガボンに入国(列車にバイクを乗せるか、そのまま陸路で自力か、トラックを探し乗せるか)するか、ポワントノワールまで行き港からオートバイを乗せてくれるフェリーか貨物船を探しガボンの首都リーブルビルにいくことも考えていたが、アンゴラの首都ルアンダで出会ったオーストラリア人ライダーからの情報を思い出した。彼らは北から南下し私が今いるあたりを通過しコンゴ~アンゴラを抜けていった。そのルートと道の状況について「一部険しく、よく転倒した。ただ良い道の状況もあった」と言っていた。ロテテで会ったドイツ人ライダーは、ンデンデ~ニャンガを通った結果、バイクが壊れ走行不能になり大型トラックの荷台にバイクを乗せ「impossible(不可能)」と言っていたが、オーストラリア人ライダー達の通過した道であれば「possoble(可能)」になりそうだ。その道の情報をキバサとマルタンに伝えると、そのルートは大丈夫!という。じゃあそこを通ってガボンの国境まで一緒に行く?と誘ってみたら考えた末、行くと言うのでまた二台3人のツーリングが続くことになった。列車案、港から船案は捨て、やはり自力陸路という選択にした。やはりどこかで当初決めた通り基本はオートバイで全てを回るという方針を貫きたいと気持ちが勝ってしまった。さて吉と出るか、凶と出るか。まず町を出る前に必要なことをしておく。コンゴのお金(FCFA=シーファー)が心もとないなので両替えをしたり国際携帯電話の料金チャージをしたりなんやかんや町を離れたのは9;00近いくなった。
出発してみると本当に道の状態が良い。舗装路に穴、たまにダートがあるだけで走っていて気持ちイイ。この思わぬ出会いのKTM製110ccバイクに乗る二人と一緒なのでとにかく気持ちが楽。道に迷うことがない。私なら絶対こっちじゃないだろという道をチョイスし目的地に最短で向かって行く。ただ彼らのバイクは110ccなのでスピードが出ないのでずーっと40キロ走行だ。それでもまったく苦にならないのは突然の道の穴、いきなりのダートなどになった時にもっとスピードが出ていたら危なかったなという所ばかりだから。ただ彼らのバイクはすでにボワンサを出てから100キロ以上は走っていてそれも二人乗りなのでついにシビティを過ぎたあたりでパンクをした。その修理に3度要す。大分太陽が傾いてきた。私一人だったら近くの村に泊めてもらうのだが彼らはそのままコモノを目指して走り続けるようだ。彼らはすでに地元民ではないにせよ、アフリカ人で悪路の対応方法をよく知っているはずなのでそのまま着いていくことにした。ついに大変な状況になった。雷が遠くから鳴り出した。急いでコモノまで行こうとなったが時既に遅く、大雨が降り出したがすでに途中で雨宿りする村もなくなった。行くしか無い。しかし大雨の路面はつるつるで全車重が300キロを超える私のバイクは「アリ走法」でしか前に進めなくなった。それでも何度か転倒してしまう。18;00を過ぎ、19:00が過ぎ、20:00になり、それでもコモノに着く事して信じてバイクを移動させる。ついに完全に真っ暗になった。もの凄く恐ろしい。ヘッドライトを消すと何も見えない。雷光だけが一瞬、道の状態を照らす。強い雨、泥道、無数の水たまり渡り、それが真っ暗闇の中でバイクを進めなければならない。途中一度後方から車がやって来て乗せてもらえないか頼んでみるが荷台にそのスペースがない車だったで断られた。皆の体力が限界になるがコモノまではまだ距離がある。そして私達以外の車両は全く通行しなくなった。21;00になった時、マルタンから提案が出た。バイクをこの場に停め、道の脇に緊急の小屋(待避所)を作りそこで一夜を明かそうと。それ以外に選択の余地がないのでそうすることにした。ここでマルタン大活躍!アフリカ人凄い!と思った瞬間だった。私はバイクのヘッドライトで照らす以外、手伝うことが出来なかったがジャングルの中で適当な竹を即座に集め、加工し、柱を作って立て、小屋を造っていく。地面の草を抜き、平にして大きな葉っぱを敷きつめる。屋根は何本か支えを通したあと、屋根かわりにまた大きい葉っぱを重ねていく。作っている最中、雷雨の中、蛍が沢山飛んでいるのに驚いた。残念ながらきれいと思う余裕がなかった(笑) 小屋を完成させるとマルタンは満足げにタバコを一服した。そして二人は中に入り寝出した。私も二人の間に入った時マルタンが動いたはずみで小屋がいきなり倒壊した(笑) もう地面に引いた葉っぱがあるだけで天井もなにもない。無情に天から雷雨が降り注ぐ。空は雷で光り続けている。小屋を作り直す体力は誰も残っていない。私は上半身だけカッパを来ているが二人は持っていないためバイクに入れてあったビニールシートをマルタンに。そして私の小さな折りたたみ傘をキバサと一緒に。もう23;00頃だ。寝ようと思うが寝れない。地面から冷たさが伝わって来る。そしてそれが時間が経つについてどんどん体温を奪っていくことを感じる。アフリカ人は大丈夫なのかと思うが凍えているのがわかった。このままでは朝になった時、みんなか誰かは死んでいるのではないかと本気で思った。しかし疲れ果ててもう何もしたくない。とにかくここまま寝たい。願うのは体温が地表の冷たさに勝ってくれることだけだ。ただ、頭に浮かんで来たのはもし私が死んでしまった場合、日本のニュースで流れる報道や悲しむ家族、仲間の顔。そして絶対に無事に帰ると約束したことを思い起こす。やはり出来ることはしようと思い、最後の力を振り絞り、みんなで体を寄せ合って寝ているところ私だけむくっと起き路上中央に停めっぱなしのバイクに行き、荷物をかき出す。地割れ状態の溝にバイクがはまったままスタンドも出せずに停めていたのでバイクが不安定でいつ倒れるか不安の中、そして雨が降りしきる中、バッグを開けるので雨がどんどん入り込む。手探りと小さい懐中電灯を使って着込めるものを探し、雨の中着込み、そしてカッパの下部を履く。私の来ていたライディングジャケットをマルタンに、バッグの中から取り出したウインドブレーカーをキバサに着させ、さらに寝袋を出して広げ、3人に布団のようにかかるようにした。すべてがぐちゃぐちゃで泥まみれになりながらも少々落ち着き、皆の凍える状態が少しは収まった。ただこの日は早朝の朝食以来、何も食べていない。私の手持ちの水もみんなで回し飲みしてきたのでペットボトルに入っている水はもう残りあと半分。手持ちのビスケットを分け合い、地面に寝転んだままそれを口に運び空腹を凌いだ。おかげで少し眠りに入れそうになったが今度は蚊がスゴイ。全身カッパを着込んでいるで大丈夫だと思っていたら首、顔を狙ってくる。私とキバサはヘルメットかぶって寝ていた。ちなみにヘルメットをかぶった状態で寝ると枕が要らず助かった(笑) そのヘルメットの中に何匹もの蚊が入ってきてもうたまらない!出来る限りももう動きたくないのだが、カッパの下に身につけているウエストバッグに虫除けスプレーを入れていたのでもぞもぞと取りだし顔にかけるとその刺激で顔が痛い(苦笑) 少しは効果があったのか知らないうちに眠りについていた。
カイでのガソリンスタンド。自分でビール瓶にためてあるものを入れます。アンゴラからこの手のものが多くなった。
カイの町並み
今日はコモノを目指す!この道の状況が続けば最高!
コンゴ人の二人。一緒にいて楽しく、信用出来る人達。
やはりジャングルだけあって周りには見た事がない形の樹々が覆い茂る。
コンゴの村の家屋。白っぽい色が特徴的。
ヤバい・・雲行きが怪しくなって来た。
相当、暗くなってきてしまった。
彼らに渡した懐中電灯だけがささやかに光る。
最後の車に助けを求めるが断られる。
急遽、待避所を造り始めるマルタン。
小一時間で完成へ。しかしその後は・・。
2011年3月3日(木)
朝、6:00にキバサさんと待ち合わせたので4:45に起きて支度。6時5分前に約束のホテルの前にバイクを停めて準備万端で待つが6:00になり、10分過ぎ、15分過ぎ、来ない。そうこうしているうちに町の人がホテルの前にバイクを停めてまたがったまま動かない私を遠巻きに見ている。話しかけてくる人が一人来て、談笑し始めると一気に人が近くに集まって来た(笑) 私はキバサさんという人と待ち合わせ居るが来ない。誰かその人のこと知らないか・・というジェスチャーをするが皆、知らないという。やっと30分過ぎにキバサさんが来た。アフリカタイムなんだな・・と思っているとガソリンがないから行けないと言う。ガーン、なんだそりゃ・・と思っているとガソリン代をくれたらイケルというのでもちろんガソリン代くらい出すよという話しをしながら、その人は次の町、マディンゴまで私を送ってそれからこのボワンザに戻るという話しをし、そこから私は一人になりドリジーを目指す、という話しの確認をしていると一人の男性、30歳のマルタンが私はキバサのバイクの後ろに乗って、マディンゴまで一緒に行ってさらにいろいろ手伝いをしますというようなことを言っているがよく判らない。ただドリジーまで一緒に行きますというようなことも言っている気がする。急遽、私のバイクと、マルタンを後ろに乗せたキバサのバイクの3人、2台のツーリングとなった。ちなみにキバサは37歳。町を出るまでに彼らはいろいろ寄るところがあり、大体7:30頃ボワンザの町を出発した。結局、昨日、英語の出来るトラック助手が言っていたように地図に乗っていない全く違う道を行き出した。トンでもない裏道ばかり走り、時には人の家の敷地の中も走る。そうしながら巨大で深い水たまりを避けている。地元の人しか絶対に判らない道だ。天気によって道の状況が変わるようで、この道を行き慣れたキバサさんもさらに道を歩く人に確認しながら道をチョイスしている。それでもどうしようもない場合もあり、沢山の深い泥道、深い水たまりを大変な思いをしながら3人で走る。ただここからは一人ではないので気分は超楽で本当に有り難い。転倒しそうな所を支えてくれたり巨大水たまりが来ると先にマルタンが深さを確認に行ってくれる。ただ、路面状況は最悪な状態が続くので本当に疲れる。途中転倒した時に左足をパニアケースにはさみ、ついに捻挫してしまった。また、いつが致命傷になったか記憶にないが昨日の走行で多数転倒したり、その度に渾身の力を振り絞りバイクを起こしたり、転倒を避けるためスゴイ踏ん張り方をしたため、左肋骨を痛め昨日のホテル到着から痛みが続く。バイクから下りるたびに足を引きずる私を見てキバサとマルタンが気遣ってくれる。とても優しい奴らだ。泥道で転倒したため全身泥だらけの私、そして泥道でスタッグ脱出の際、後ろからバイクを押してくれるタイヤから跳ね上がる泥で彼らもひどく衣類が汚れ、川で一緒に洗濯をした。貴重な経験だ(笑) 走行中、方針を決めた。これ以上酷い道を走り続けるのは意味がなくマジで生死に関わる。またオートバイを酷く損傷させこの旅が終わってしまうかもしれない。道案内であるキバサがいなくなるマディンゴから先は腰~胸までの水の深さとも聞いた。マディンゴに着いたら彼らとは別れ、ホテルに入って今日はここで泊まり、明朝ドリジーまで乗せて行ってくれるピックアップ車(4WD車)を探そうと思った。
出発から約6時間ほど走りついにマディンゴに着いた。ホテルを探したいと言ったらマディンゴをよく知るキバサがすぐに一番いいとされるホテルにつれていってくれチェックインし荷物を部屋に運び込んだ。そのホテルの食堂?で、私の決めた方針を伝えると、マルタンが車にバイクを乗せるとバイクが大変なことになるとか数日かかるとかいうので列車に乗せることにした。そしてマルタンが列車に一緒に乗ってドリジーか港町のポワントノワールまで行くという。そしてその列車は今日、今から乗る事が出来るという。結局、このホテルをキャンセルし、すぐに駅に向かいバイクを乗せる準備をした。一時間ほど待っただろうか。ついに列車が来た。列車にバイクを乗せるため、線路を乗り越え、バイクを乗せる場所を探しているとあるコンテナのドアを開けてここだ!ここ!と手招きしている人が居る。そこまで一生懸命移動し、バイクをコンテナに乗せるのを手伝おうとしている大勢の人たちも一緒に大移動している。すると無情にも列車が動きだし発車して行ってしまった。待っていてくれなかった。マルタンがつぶやいた「AFRICA・・」(これがアフリカさ)もうその日の列車はないという。チャンチャン(苦笑) 結局さらにもう一つ先の町まで行こうということになりカイという町まで行くとにした。マディンゴからカイまでだけは悪路ではなかった。一部舗装ですんなり移動出来たが、ここで事件発生。ポリスが後方から来て制止させる。全ての荷物を開けられ、中身を確認し、財布の中身まで見た。トラベラーズチェックを見て現金だと思い込み、これは量が多い、申告違反だ、カイの憲兵署まで連行すると言う。これは小切手だよと言っても意味がわからないらしく聞く耳を持たない。日本大使館に連絡しその警官と話しをしてもらうが拉致が開かず、そのままパスポートとトラベラーズチェックの入った財布を持ったままパトカーを発進させて行ってしまった。結局、マディンゴまでで私の案内を終えて帰るはずだったキバサはカイまでマルタンを乗せていくことになった。カイに着くと辺りは暗くなり始めていた。結局署で話しをする際、トラベラーズチェックのことについて訳がわからないことを言うので再度、日本大使館に連絡をし何度も電話を変わりながらやっと状況が変わったのはこの所長は、トラベラーズチェックをやはり現金だと思い込んでいて、しっかりとそれは現金でないので申告の必要がないということを大使館の人が伝えてくれると署長の表情と態度が変わり、まじまじをトラベラーズチェックをいろんな角度から見て、最終的に全て返却された。ただ最後にデジカメのメモリカードを欲しいからくれという。私の荷物をチェックしている時に日本に撮影データを送るためのメモリカードを見ていたようだ。さらに乾電池も欲しいと。これも旅行代と割り切り、またどんどん時間が遅くなるのは嫌なので中古のメモリだけ渡した。すると機嫌がよくなりホテル探しを一緒に行ってくれ明朝の列車についても手伝うので朝、署までくるといいと言う。あまり気が進まないかマルタンがいるからいいか。またホテルで3人で泊まることになった。ハプニングの連続のツーリングを笑いあいながら夕食を共にした。明日はキバサと別れ私とマルタンはバイクと一緒に列車に乗る。
夜が開けきらない町でキバサさんを待つ。人は沢山歩いている。
私の助っ人を申し出てくれたマルタン君。日の出と共にスタート。
バイクはKTM製の108CC。このバイクのことを現地の人は「ジャカルタ」と呼んでいた気がする。
キバサさん。とっても優しくいつも笑顔とユーモアを絶やさない人。
途中、休憩した町で。
マディンゴ駅からバイクを列車に乗せるぞ!
一生懸命、駆け寄るが・・
ああ、行ってしまった。。
カイへ行くことに。道は穏やかなグラベル。
もう、夕方。憲兵とのやりとりで時間が遅くなり3人で泊まることになったホテルで食事。会話は成り立たないが楽しい仲間になる。